20 続

先日、意を決して母に成人式のことについて聞いた。

友達の中にはもう振袖を選んだ子もいるのだがうちはどうするのかと。

母の答えは至って短調で、そうして全く予想通りのものだったのでかえって安心してしまった。


「振袖なんて、いくらかかるのよ」


呆れたようにそう言い放って、母はその場を去っていってしまった。

やんわりと絶望して諦めて、ああこういう人生だよなぁ私は。と、つい人生を俯瞰した。


いくらかかるのよ。

1日振袖を着るだけで、数十万のお金がなくなるというのは確かに不条理なことであろう。私の家庭ではそれを捻出する事が困難である事も分かっていた。それは分かっていた。ずっと前から気がついていた。本当は。


それなのに、どうして私は自分が死ぬ事を察知した上で母に聞いてしまったのだろうか。

それはやっぱり諦念を全うできなかったからである。情けないなぁと思う。

希望と絶望は紙一重で、どちらかを捨てて仕舞えばもうどちらかも自ずと消し去る事ができるのに。



私は豪華な振袖が着たかった訳ではない。もちろん買取をしろというつもりもなかった。


本当はただ求められたかっただけなのだ。

レンタルで安いところを探しさえすれば、ちょっと頑張れば振袖なんていくらだって着られる。自腹でも。

それでも私は、母に望まれたかったのだ。

多少無理をしてでも晴れ姿を見たいと思ってもらえる娘になりたかった。

「いくらまでになっちゃうけど、安いところ探して見に行こう」とか「ごめんね、せめて写真だけでも撮れるところ探そう」とか、なんなら「どうしてもお金を捻出できなくて着せてあげられないかもしれない」とか

そういう事を言って欲しかったのだ私は。


彼女が自発的に、お金がないけれどもどうにかしてあげたい、どうにか方法はないのかと考えてくれれば振袖なんて後付けなのだ。

例え着られなくたって一言謝ってくれさえすればなんとか耐えることもできたはずだ。


可愛い格好がしたいというだけなら、私は自分でだって構わないからどうにかこうにかお金を払うだろう。

でも、母は私の成長と晴れ姿になんて霞ほどの興味さえない。父が見る訳でもない。

自分で自分のために着る祝い衣装ほど虚しくて堪らない物はないから、私は絶対に振袖を着てはいけない。

虚構の笑みをたたえる私の写真なんて手元に置きたくもないし、そもそも誰にも望まれていないのだから馬鹿なことにお金をかけてはバチが当たるのだ。


振袖を決めてきたとかいう話を聞くだけで私は存外不愉快な気持ちになるし、そういう家庭に生まれた子らの事が妬ましくて堪らなくなる。

これから前撮りの、仲睦まじい家族写真を見ては号泣する日々が訪れるのであろう。死んでしまえ。くそくらえだ。


推薦やAOで合格した人間が、「合格しました!」とツイートするとそうでない周りにめちゃくちゃにぶっ叩かれる。

なんなら一般入試で合格した子でさえ、受かっていない子もいるという理由で言葉狩りをされる。大人しくしている事を余儀無くされる。

幸せな家庭を持つ人間は、持たざる人間の気持ちなんて微塵も念頭になく幸福自慢をするくせに。

家族が全員揃っているとか、家族旅行とか、それこそ成人式の話題が当たり前だと思うなよ。

「そうでない立場の者を傷つけるから公言してはいけない」というモラルがまかり通るならば、お前ら全員家族の話なんてしてんじゃねえよ。そう思うのは些か性格が悪すぎるのだろうか。

だって受験は本人の努力で勝ち得た結果であり、言ってしまえば公言する資格は充分に持っているだろう。

家庭なんてただの運だ。親ガチャでそこそこ良いキャラクターを出せば良いだけ。本人は何も偉くないし自慢できる事ではないんだから今すぐ幸せそうな姿を振りまくのはやめてくれ。私は親ガチャでなぜか素材が出たみたいな、もはやそういうレベルなんだから。


成人式は、親が子供のために行動できる最後の大きな行事だと思う。

それすら放棄されてしまうのはやはり言いようもなく虚しい。

大学は無事決まったが、学費だって将来的に自分で返済していかなければいけない。

母は一体、親として何をしてくれたのだろう。何を与えてくれたのであろう。今までのうのうと生きながらえてしまったのは勿論母のおかげではあるのだけれどもそう考えてしまう自分も幼稚だと思う。


そこそこ名は知れた大学(実績が伴っているかは別問題)への進学が決まり、言ってしまえば世間に話しても恥ずかしくはないレベルではあるのだが、いざ合格して入学要項を見た母は入学金を見てさっと青ざめた。


「こんなにかかるの」


どうして今更そんな事を言うのだろう。

だって入学金に奨学金が間に合わない事は伝えていたし、書類だって見せてきた。

ここまで子に興味を持てない親というのはある種の才能だなと感じた。

結局母は父(私から見た祖父)にお金を用立ててもらい、なんともない顔で「おじいちゃんが払ってくれるって」と言ってきた。あんまりにも面の顔が厚いものだと感心せざるを得ない。


子にお金をかける事が愛情だとは思わない。しかし、ある程度比例はするのだ。当たり前に。

でもそれはお月謝の高い塾に通わせるとか、私立の高校に楽観的に行かせるとかそういうことではないのだ。

お金をかける事と時間をかける事は同義で、親の犠牲の上に子は育っていく。自己犠牲を養分に子を育てていく。育児というのは多分そういうものだと思っている。


私には姪がいる。

姉の子供で、まだ一歳そこらで、自分の子供でない以上はある程度愛らしく感じられる。姉は我が子を慈しみ愛し、どうにか幸せに暮らさせてやろうと自分を犠牲にして日々を送っている。

「私の服はほとんどGUだし、靴だってABCマートのセール品だけど。でもこの子にはミキハウスの靴を履かせてる」

と、やはり愛おしそうに話してくれた。

羨ましいと思った。

良い歳をして私は幸せな子供に嫉妬してしまう。

ああお姉ちゃんが私の親なら、きっときちんと愛情を享受できる人間に育っていたのだろうなとぼんやり思った。




「この色似合いそうだから着てほしいな」「こっちの柄の方が可愛いね」「成人式、楽しみだね」

そんな事を言いながら母と振袖を選びたかったと思ってしまうのは、やはり往生際が悪いだろうか。私はただその時間が欲しかっただけだ。


親切な先輩が、親の振袖を貸してあげようかと声をかけてくれた。

本当に優しくて優しくて、気を利かせてくださった彼に感謝しかない。

けど私の振袖を着る意味は母との繋がりを再確認したいという気持ちから来ている。

したがって他人の振袖をお借りするという事は、母と私の関係がいかに希薄であるかの証明にもなってしまう。それは悲しい。


さっぱり諦めて、私は当日バイトでもしてようかな。世の中の恵まれた女の子たちを羨みながら。

いつか私を愛してくれますようにと願ってみるも、可愛い盛りの幼少期をとうに踏み越えた私が今更母の愛情を得る事は実質不可能だとどこかで分かっている。


早く諦めたい。全部。