諦念と丁寧
思えば多くの事を諦めてきてしまった。
あれがしたいこれが欲しいと縋り付いたこと自体、恐らく幼少期からほとんどなかったように思う。
というよりも、激しく興味を惹かれる事柄に出会う事がずいぶん稀であった。尚且つ、手に入らないならばそれでまた良しと大した努力もせずに放り捨ててしまうものはそれなりに多くあった。
つまり、さしたる労力を割かずとして手に入るそこそこの物ばかりに囲まれてきた。
学校も、友人関係も。
父は、子供らしい物を嫌う人だった。
プリキュアとか、ボールプールとか、ちゃちい遊園地とか、おもちゃ王国とか、ファミリーレストランとか。
それこそ枚挙にいとまがない。
それでも私はそういうものが好きだった時期が確かに存在していた。けれども、父の嫌いな物を欲しがったり見たがったりは決してしなかった。もちろんくだらない場所に行きたがったりもしなかった。
ねだって怒られたり断られたりするのが嫌だったのではない。軽蔑されるのが怖かったのだ。
だからこそ、常にそんなものには微塵も興味がないという風を吹かし続けなければならなかった。小さな私に根ざした確固たる諦念の生き方だった。
そんなことをしていると、私はそもそもそういったものに本当に興味を持てなくなってしまった。何を好きになっていいのかも分からなかったから、父に面白いと思ってもらえそうな物を愛してみた。
青年漫画とかおつまみとか水曜どうでしょうとか、そういうものだ。
けれども今ではそんなものは徒労に終わってしまったし、本当に好きな物なんかほとんどない人間になってしまった。
テレビもアニメも漫画もほとんど見ない。
芸能人になんてまるで疎いし、追いかけているドラマも1つだってない。
狭まる世界の中で、私は本を読んだり絵を描いたり稀に映画を見たりしている。
諦めてしまったから、もう二度と興味を持てないであろう大衆的な思考を丁寧になでつけながら。
それでいい。