安定した日々の退屈を

年末から年始にかけての五日間、恋人の家で過ごした。

もともと、家具を見たりスーパーに寄ったりそういう外出は好きだった。

私は家族以外の人間との共存にとてつもなく憧れを抱いていて、それを擬似体験したような気持ちになれる場所に愛情を持ってしまう。逃げ場を求めての行為なのか、純粋な愛情からなのかは未だ分からないけれど。


大森靖子の「絶対彼女」という曲が好きだった。

その歌詞に"幸せなんてただの非日常よ"というフレーズがある。

私にとっての幸せはそういうもので、日常生活も恋人との関係も基本的に凄惨を極めておりたまの幸せが桁外れに清輝なものだった。

幸せは日常のものでなかった。

安定が幸せとか、平和が1番とか、そういうものが少しも理解できずにいた。

劇的な幸福は不幸の後にしか訪れないものだと知っていた。

また、幸福の後にはろくでもない事象が起こるということも。

だからこそ幸せはかけがえのないもので大切なのだと思っていたし、持て余すことなどないと捉えていた。


今の恋人は、全く持って真逆の安定を与えてくれる人である。

言ってしまえば私の不安症がそこそこに解消されたのはまず彼のおかげであると思う。

勿論、全部が全部健常になれるわけではなくたまの憂鬱と希死念慮は残っているのだがそれでも頻度としてはかなりまともになったのではないだろうか。多分。


また大森靖子と打って変わって、クリープハイプに「オレンジ」という曲がある。

この曲もまた幸せについて述べているのだが、私はようやく共感を持つことができた。


安定した日々の退屈を、幸せと呼ぶのです。


退屈を幸せと呼べるなど今までの人生では到底想像もつかなかった。

18年と生きてきて初めて、不幸ありきでない幸福に触れた。

幸せは独立したものであり、対象物をもってして際立たせるものではないのだ。

コントラストで幸は生まれないのだ、どうやら。


私は慎ましい暮らしが好きなのだと思う。

質素で簡潔な生活が心地良い。

お金をかけずとも私は幸せになれると、幸せを感じさせてくれる人間がいるのだと何者かに証明したいだけなのかもしれないが。

少女趣味なもので、猫足バスタブとか天蓋付きのベッドとかが好きだけど、それでも、そんなものはいらないのだ。

いや、やっぱりあるに越したことはないかな。うーん。

とにかく今は、分相応に退屈だけ手元にあれば十分なのだと思う。